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日本古来の漢方や中医学とも違う、新しい漢方ともいうべき「井上流漢方」について説明します。患者さんの気の流れをみて気を整えることを第一義とする「井上流漢方」を名古屋の井上先生の外来から報告します。
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日本東洋医学会専門医試験についての情報提供⑩
‐日本の漢方の歴史‐明治~現在
 
明治になり漢方は受難の時代を迎えます。
 
明治政府は西洋に追いつこうとして、西洋の科学技術どんどん取り入れていったので、当然医学についても西洋医学を医学の中心に据えました。その結果漢方は疎外されていきます。特に、軍事医学の面で西洋医学が漢方よりはるかにすぐれていたのが効いたようです。
 
明治九年に布告された医術開業試験の科目はすべてが西洋医学によるものでした。だから、医者になりたい人は漢方でなく西洋医学を勉強しなくてはならなくなりました。
 
山田業広、浅田宗伯らはこれに対して温知社を設立して漢方の存続運動を起こしましたが数年後には解散。以前からの漢方医は診療を行っていたようですが、世代交代が進むにつれて漢方を勉強したことがない西洋医がほとんどになりました。これは漢方の自然消滅へと進む道でした。
 
そこで出た来たのが、
・和田啓十郎(1872-1916):幼いころ漢方で家族の難病が治ったことを経験。済生学舎で西洋医学を学び、その後漢方医の弟子となり臨床経験を積み、漢方の良さを世に知らしめようと明治43『医界の鉄椎』を著わしました。
この本のあたえた社会的反響は甚大だった。
 
・湯本求真18761941):西洋医学を学んだ後、和田啓十郎の『医界之鉄椎』を読み感動し漢方を志した。和田啓十郎に師事。昭和2『皇漢医学』を執筆刊行、昭和時代の漢方復興の基礎をきずいた。「漢方医学中興の祖」「東西医学融合の先覚者」と称えられる。弟子には大塚敬節など昭和漢方の発展の礎を築いた指導者が輩出した。
 
 
 和田


 湯本
 
・その後1950年、大塚敬節、奥田謙蔵、細野史郎、矢数道明らにより日本東洋医学会が設立されました。
 
・1976年には、漢方エキス製剤33処方が薬価基準に収載され、そして現在では148処方が保険適用薬として認められています。
 
・2001年には、医学のコアカリキュラムに漢方医学が採録され、大学教育で教えられるようになりました。
 
【サントのコメント】
・鉄椎とは二千年の昔、張良という人が秦の始皇帝を待ち伏せし、その車に正義の鉄椎を投げつけたことによります。
 
・和田桂十郎44歳で早くして亡くなったので、湯本休診は和田桂十郎に一度も合うことはなかったようです。生前に手紙を介して指導を受けたようです。それでも一流の漢方医になれたのは才能と努力があったのでしょう。
 

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【2014/01/02 21:54】 | 漢方専門医試験情報★New★
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日本東洋医学会専門医試験についての情報提供⑩
‐日本の漢方の歴史‐考証学派
 
考証学派は文献に基づいて漢方を客観的に研究しようとする人々を言います。

 江戸中期から隆盛を極めた古方では、自分たちに都合のよいように傷寒論や古典とを解釈する傾向にありましたが、これに対する反動として起こってきました。この点は折衷派に近いと言えます。折衷派が技術に中心をおいて、考証学派は文献に中心をおいたともいえます。たくさんの文献が必要だったので幕府の医学館にかかわる人たちです。
 
 改めて、日本の漢方の流れをおおまかにみると、①後世②古方③折衷派、考証学派、となります。それぞれが、前の時代の漢方への反動により起こってきました。
 
さて、代表的な人々は...
江戸後期から始まります。
・目黒道琢(1739‐1798):考証学派を興した人。1765年医学館が創建されたときから医経を休まずに講義した。『餐英館療治雑話』『驪家医言』
 
・伊沢蘭軒(1777-1829):医者であり儒学者。福山藩につかえた。医学は目黒道琢から学ぶ。弟子に森立之、渋江抽斎、山田業広らがいる。『蘭軒遺稿』『蘭軒医話』
 
・多紀元簡〈もとやす>(1755-1810):医学館を主宰し、徳川家斉の侍医となる。医書の収集、校訂、復刻につとめ考証派の学風を確立した。『傷寒論輯義』『金匱要略輯義』『観聚方要補』『素問識』『霊識』『脈学輯要』『医
 
・多紀元堅もとかた>(1795-1857):元簡の子ども。父の考証学の学風を継いで医籍の収集、校訂、復刻に努め、渋江抽斎、森立之、山田業広らの考証医学者を育てる。『傷寒論述義』『金匱要略述義』『難病広要』『薬治通義』『時還読我書』。医学館を挙げて半井家秘蔵の『医心方』の校刊を行った。
 
・渋江抽斎(1805-1858):伊沢蘭軒に師事した。弘前藩医をへて、幕府医学館の講師となった。森立之らと「経籍訪古志」をあらわした。
 
・森立之(1807-1885):伊沢蘭軒に師事した。後に医学館講師となる。幕末に最高水準に達した考証医学を集大成した最後の考証学者。渋江抽斎らとまじわり『経籍訪古志』の刊行をした。また『神農本草経』の復原をおこなった。
『本草経攷注』『素問攷注』『傷寒論攷注』
 
・山田業広(1808-1881):伊沢蘭軒つづいて多紀元堅に医学を学ぶ。その後幕府医学館講師を務める。維新後は温知社を立ち上げ漢方の存続運動を行った。『九折堂読書記』『金匱要略集注』『素問次注集疏』『医学管錐』『経方弁』 
 
 













多紀








 
 
 
【サントのコメント】
・伊沢蘭軒、渋江抽斎については森鴎外の小説があります。
 
・多紀氏は丹波康頼の子孫だそうです。多紀氏の私営になる躋寿館(せいじゆかん)が医学館になったそうです。江戸時代の医学の中心勢力となりました。
 
・江戸考証学派はレベルが高く当時の中国のそれを超えていたので明治になって中国に逆輸入されたそうです。東洋学術出版の『現代語訳黄帝内経素問、霊枢』を読んでいると元は中国の本なのに多紀元簡がたくさん引用されていることが不思議でしたが、これで理解できました。
 
 


【2014/01/01 22:35】 | 漢方専門医試験情報★New★
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日本東洋医学会専門医試験についての情報提供
‐日本の漢方の歴史‐折衷派



折衷派には古法と後世法のいわゆる「折衷派」と、漢方と蘭学の折衷派の「漢蘭折衷派」2つがあります。

 

 まずいわゆる折衷派ですが、これは古法と後世のいいとこ取りをして効くものは使うという立場です。江戸中期から古法がものすごく力を得たので、その反動として古法の中にも後世のいいところを取り入れようとする人が出ました。

 

 また、杉田玄白、前野良沢らによる『解体新書』の翻訳出版後、蘭学を学ぶ医者がたくさん出てきました。漢方と蘭学を治療に取り入れたのが、漢蘭折衷派です。

 

◆折衷派

 

福井楓亭1725-1792)

京都で開業。のち江戸にまねかれ幕府の医官となる。『方読弁解』『集験良方』など。この人も折衷派に属します

和田東郭(1743-1803)

吉益東洞の弟子だが、古法を盲信しなかった。「一切の疾病の治療は、古方を主として、その足らざるを後世方等を以て補うべし」と主張した。中庸を得た治療法で一世を風靡した。『蕉窓雑話』『蕉窓方意解』『導水瑣言』『傷寒論正文解』『東郭医談』『東郭腹診録』

 

浅田宗伯1815-1894)

幕末から明治初期にかけての漢方の巨人。中西深斎のもとで古法を学んだ後、江戸に出て多紀元堅らと付き合う。その後幕府の医官となり、さらには法眼の位を授けられた『勿誤薬室方函『勿誤薬室方函口訣』『橘窓書影』『古方薬議』など。

二書は現代でも良く引用されている。これを見ると、古法後世にかかわらず中国~日本、広く処方を使いこなしているのがわかる。

 

 















浅田

◆漢蘭折衷派

 

永富独嘯庵1732-1766)

早熟早世の天才、吉益東洞の同時代人。山脇東洋の門で古法と解剖学を学ぶ。大阪で開業し『吐方考』『嚢語』『漫遊雑記』を書いた。

 

華岡青洲(1760-1835)

初期には吉益南涯について古法を、大和見水に蘭方を学ぶ。紀州和歌山で開業し、通仙散による全身麻酔で乳癌の手術を行ったのは有名。青洲は常に「内外合一 活物窮理」を唱えた。内は内科(漢方)で外は外科(蘭方)ということです。

本間棗軒1804-1872)

青洲の弟子、華岡流外科手術の継承発展者原南陽に漢方を、その後華岡青洲に外科を学ぶ。江戸で開業して水戸藩医となった。困難な手術を数多く手がけた。

『瘍科秘録』『続瘍科秘録』『内科秘録』

 

 








華岡

 


【サントのコメント】

福井楓亭疝気八味方痿症方などを創作しました。子供も福井榕亭で有名。

 

和田東郭は折衷家として最も著名。医療に専念して著述を残さなかった。上記の本は門人が口述筆記したもの。現代の日本の漢方にも大きな影響を与えている。

 

浅田宗伯は江戸から明治にかけての激動期に生きた巨人。フランス公使レオン・ロッシュを治療したのは有名。膨大な量の著作がある。現代の漢方に与えた影響も甚大。浅田飴も浅田宗伯の処方と関係するらしい。

 

・永富独嘯庵は早世の天才。若くして儒学、古医道、蘭学を極めたが大阪で35歳で亡くなった。墓は蔵鷺庵(大阪市天王寺区)にあります。

 

・華岡青洲の全身麻酔はエーテルに先立つこと40年以上ということです。有吉佐和子小説『華岡青洲の妻』で一般にも有名になった。十味敗毒湯、紫雲膏などもつくりました。

 

本間棗軒の著作により華岡青洲の外科の技法が公開された。秘伝だったのですね。このため、青洲に破門されたようです。


折衷派


 


【2013/12/31 21:09】 | 漢方専門医試験情報★New★
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日本東洋医学会専門医試験についての情報提供⑧
‐日本の漢方の歴史‐古法派


「古方派」とは 、『傷寒論』『金匱要略』に回帰して治療を行おうとする流派のことを言います。
実利、実効を重んじ、五行論などの観念的な理論は排斥しました。
現在の日本漢方でも最も有力です。そうそうたる大御所がここから出てきています。

いま、みんながやっている腹診やら、よく言っている「水毒」「気滞」とかはここに起源があるのです。
日本漢方を特徴づけるのはここなので、よく理解しましょう。

起こったのは、当時の「後世派」の退廃、梅毒の流行、儒学の新しい潮流などがその背景にあるようです。

さて、次のように、江戸中期~です。

・名古屋玄医 (1628~1696)
古方派の先駆け。『傷寒論』『金匱要略』に基づく復古の説の提唱 
『金匱註解』『医方問余』
 
・後藤艮山 (1659~1733)
古方派の祖・百病は一気の留滞によって生じるとする「一気留滞説」を提唱。。香川修庵、山脇東洋ら多くの門人を育てた。 
・香川修庵 (1683~1755)
伊藤仁斎より古学を、後藤艮山より医を学ぶ。「儒医一本論」を唱えた。 
『一本堂薬選』『一本堂行余医言』

・内藤希哲(1701~1735)
江戸中期、五経一貫を体系づけた俊才。
若くして亡くなる。
『医経解惑論』『傷寒雑病論類編』

 
・山脇東洋(1705~1762 )
艮山の弟子。刑死人の解剖を行い、日本最初の解剖書『蔵志』を刊行。
・吉益東洞(1702~1773)
張仲景の医方を研究し「万病一毒説」を唱える。その後、山脇東洋に認められ名声を博し古方派の雄となった。診察では腹診を重視。『類聚方』『薬徴』『方極』『古書医言』
・吉益南涯(1750~1813)
東洞の長男。東洞の「万病一毒説」を修正発展させた「気血水説」を提唱 。
『気血水薬徴』『傷寒論精義』『医範』
・中西深斎(1725~1803)
東洞の高弟。『傷寒論弁正』『傷寒名数解』を著わす。傷寒論の真価はこの註解書により国内に伝播。


・尾台榕堂(1799~1871)
東洞を敬愛した古法派。
幕末の江戸にあって浅田宗伯と名声を二分した。
『類聚方広義』『重校薬徴』『方伎雑誌』
*『類聚方広義』『重校薬徴』は東洞の『類聚方』『薬徴』を補充したもの。




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*東亜医学協会のHPの「日本先哲医家資料集」は昔の漢方名人を簡潔に説明してくれているのでお勧めです。
是非協会の『漢方の臨床』を購読してあげてください。
私の師匠の井上先生も時々投稿してます。

*画像はツムラのホームページから引用しました。

【サントのコメント】

名古屋玄医は明の喩嘉言の『傷寒尚論』を読んで当時盛行の李朱医学を捨てて医学の源流にさかのぼり張仲景の古医方にかえることを唱えたました。

後藤艮山の「一気留滞説」とは百病は一気の留滞に生ずるとするもの。だから、順気をすればよいと。灸、熊胆、温泉を勧めたので「湯熊灸庵」と呼ばれたようです。この人は頭を剃らなかったので、それ以降、医師はボウズでなくなった。時代劇で出てくる医者の格好はこの人から始まるのですね。

香川修庵は儒学に打ち込んで「儒医一本論」という説を唱えました。だから「一本堂」という著書が多い。孔子と孟子を崇拝した。

内藤希哲は独学実践で若くして傷寒論の奥義に達したらしい。35歳で夭折。天才は早く死ぬことの例のような人。もう一人が、後の水富独嘯庵。

山脇東洋:この人から日本の解剖は始まる。杉田玄白らによる「解体新書」の刊行はこれから20年後。子供の「東門」も解剖をやって山脇家は京都における解剖のシニセのようだった。

吉益東洞:現在の日本漢方の直接の源流。貧乏だったのが山脇東洋に認められて世に出たのは有名。「万病一毒説」では病気の原因となる毒を漢方で駆逐するこ とが治療となる。だから、少々キツイ。「五行論」なんか完全に否定。実践的、実利的でアッサリしていて日本人向き。すごく流行りました。
サントは鍼をやるので、五行とか五臓とか感覚的にわかるので、この説はいただけません。

中西深斎:吉益東洞の説を広めるために30年間こもって傷寒論の注解書を書きました。それが『傷寒論弁正』『傷寒名数解』。そんなすごい弟子がいる吉益東洞とはそれだけ魅力があったのでしょう。カリスマだったのでしょう。

吉益南涯、お父ちゃんの説があまりもの過激だったので、息子が修正して「気血水説」をつくった。こうなると中医学に近くなるのでいろいろ説明しやすい。現在の日本漢方の理論的枠組みはここにあります。

尾台容堂は東洞を尊敬して、注釈書『類聚方広義』を書いた。これは今でもよく読まれています。いまだに影響力が大きい本です。サントも読みましたが、本文の『類聚方』だけでは面白くない。ただ傷寒金匱の処方を並べているだけ。尾台容堂の頭注をよんでよくわかる。


下の、ツムラの「エッシェンシャル漢方医学」からの図はよくわかります。
またまた、引用させていただきました。

古法




【2013/12/06 22:11】 | 漢方専門医試験情報★New★
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日本東洋医学会専門医試験についての情報提供⑦
‐日本の漢方の歴史‐


今回は「後世派」について書きます。
後世派とは曲直瀬道三に発する、金元の医学に重きを置く流派です。
後から起こってきた「傷寒論」、「金匱要略」を重視する古法派に対してこう呼ばれます。

依拠する中国の原典の古い・新しいで古法、後世と言っているのであって、日本での新旧ではありません。

最初、漢方をやり始めたときは、ピンと来なかった。

室町時代

 

 

 

安土桃山


 

 

 

 

 

 

 

 

 

江戸前期

 

 

 

 


江戸中期

田代三喜:禅明から「李朱医学」を導入。(『三喜廻翁医書』

曲直瀬道三:三喜の弟子。後世派の源流。啓廸院で弟子を多数育てる。(『啓廸集』、『衆方規矩』『薬性能毒』

曲直瀬玄朔:道三の甥。秀吉、秀次、家康、秀忠などを治療した。(『医学天正記』

饗庭東庵あえばとうあん):玄朔の弟子。後世別派。岡本一包らが弟子。『黄帝秘伝経脈発揮』『素問標註諸言草稿』

津田玄仙:東庵の弟子。口訣を重視。上総国で開業し東国の名医として知られた。(『療治茶談療治経験筆記

 

香月牛山(かつきぎゅうざん):江戸中期の後世派の代表。儒を貝原益軒,医を鶴原玄益に学ぶ。『牛山方考』『牛山活套』『婦人寿草』『老人必用養草』『小児必用養育草』



 グラフィックス1

 グラフィックス2


 グラフィックス3

 










グラフィックス4


『漢方の臨床』を発行している東亜医学協会のHPの「日本先哲医家資料集」は各名人を簡潔に説明してくれているのでお勧めです。リンク  是非、『漢方の臨床』を購読してあげてください。私の師匠の井上先生も時々投稿してます。

【サントのコメント】
田代三喜の本は秘伝だったので他人に分からないように暗号で書かれていたようです。

曲直部道三の『衆方規矩』は、燎原で池尻先生訳の本が手に入ります(↓)。これはいい本です。江戸時代の漢方医のいわゆる「今日の治療薬」見たいな存在だったようですね。ツムラのHPからも偉い先生の講義がダウンロードできます。

衆方規矩

曲直瀬玄朔の『医学天正記』には当時の天皇、将軍、大名の治療記録がかかれているようです。是非、読んでみたい!

饗庭東庵:この人の名前は読めない。試験をうけるときは(きょうていとうあん)と勝手に読んでいた。これでも試験は受かります。後で調べ始めて(あえば)とわかった。失礼しました。金の劉完素の理論に基づき曲直瀬流とは別派を立てたようです。

津田玄仙は補中益気湯の8つの口訣が有名。これは右の欄の「漢方処方解説」の補中益気湯を見てください。

香月牛山は、江戸中期の吉益東洞の古法に対する対抗馬です。温補剤をよく使いました。著書には「牛山」とつくのでわかりやすい。井上流も温補剤をよく使うので、親しみを感じる。そうなるとサントも後世派になるのかな?

下の、ツムラの「エッセンシャル漢方医学」の図がよくわかります。
また、引用させていただきました。

後世派


【2013/12/05 21:35】 | 漢方専門医試験情報★New★
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