日本古来の漢方や中医学とも違う、新しい漢方ともいうべき「井上流漢方」について説明します。患者さんの気の流れをみて気を整えることを第一義とする「井上流漢方」を名古屋の井上先生の外来から報告します。
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‐日本の漢方の歴史‐折衷派



折衷派には古法と後世法のいわゆる「折衷派」と、漢方と蘭学の折衷派の「漢蘭折衷派」2つがあります。

 

 まずいわゆる折衷派ですが、これは古法と後世のいいとこ取りをして効くものは使うという立場です。江戸中期から古法がものすごく力を得たので、その反動として古法の中にも後世のいいところを取り入れようとする人が出ました。

 

 また、杉田玄白、前野良沢らによる『解体新書』の翻訳出版後、蘭学を学ぶ医者がたくさん出てきました。漢方と蘭学を治療に取り入れたのが、漢蘭折衷派です。

 

◆折衷派

 

福井楓亭1725-1792)

京都で開業。のち江戸にまねかれ幕府の医官となる。『方読弁解』『集験良方』など。この人も折衷派に属します

和田東郭(1743-1803)

吉益東洞の弟子だが、古法を盲信しなかった。「一切の疾病の治療は、古方を主として、その足らざるを後世方等を以て補うべし」と主張した。中庸を得た治療法で一世を風靡した。『蕉窓雑話』『蕉窓方意解』『導水瑣言』『傷寒論正文解』『東郭医談』『東郭腹診録』

 

浅田宗伯1815-1894)

幕末から明治初期にかけての漢方の巨人。中西深斎のもとで古法を学んだ後、江戸に出て多紀元堅らと付き合う。その後幕府の医官となり、さらには法眼の位を授けられた『勿誤薬室方函『勿誤薬室方函口訣』『橘窓書影』『古方薬議』など。

二書は現代でも良く引用されている。これを見ると、古法後世にかかわらず中国~日本、広く処方を使いこなしているのがわかる。

 

 















浅田

◆漢蘭折衷派

 

永富独嘯庵1732-1766)

早熟早世の天才、吉益東洞の同時代人。山脇東洋の門で古法と解剖学を学ぶ。大阪で開業し『吐方考』『嚢語』『漫遊雑記』を書いた。

 

華岡青洲(1760-1835)

初期には吉益南涯について古法を、大和見水に蘭方を学ぶ。紀州和歌山で開業し、通仙散による全身麻酔で乳癌の手術を行ったのは有名。青洲は常に「内外合一 活物窮理」を唱えた。内は内科(漢方)で外は外科(蘭方)ということです。

本間棗軒1804-1872)

青洲の弟子、華岡流外科手術の継承発展者原南陽に漢方を、その後華岡青洲に外科を学ぶ。江戸で開業して水戸藩医となった。困難な手術を数多く手がけた。

『瘍科秘録』『続瘍科秘録』『内科秘録』

 

 








華岡

 


【サントのコメント】

福井楓亭疝気八味方痿症方などを創作しました。子供も福井榕亭で有名。

 

和田東郭は折衷家として最も著名。医療に専念して著述を残さなかった。上記の本は門人が口述筆記したもの。現代の日本の漢方にも大きな影響を与えている。

 

浅田宗伯は江戸から明治にかけての激動期に生きた巨人。フランス公使レオン・ロッシュを治療したのは有名。膨大な量の著作がある。現代の漢方に与えた影響も甚大。浅田飴も浅田宗伯の処方と関係するらしい。

 

・永富独嘯庵は早世の天才。若くして儒学、古医道、蘭学を極めたが大阪で35歳で亡くなった。墓は蔵鷺庵(大阪市天王寺区)にあります。

 

・華岡青洲の全身麻酔はエーテルに先立つこと40年以上ということです。有吉佐和子小説『華岡青洲の妻』で一般にも有名になった。十味敗毒湯、紫雲膏などもつくりました。

 

本間棗軒の著作により華岡青洲の外科の技法が公開された。秘伝だったのですね。このため、青洲に破門されたようです。


折衷派


 


【2013/12/31 21:09】 | 漢方専門医試験情報★New★
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