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日本古来の漢方や中医学とも違う、新しい漢方ともいうべき「井上流漢方」について説明します。患者さんの気の流れをみて気を整えることを第一義とする「井上流漢方」を名古屋の井上先生の外来から報告します。
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日本東洋医学会専門医試験についての情報提供⑩
‐日本の漢方の歴史‐考証学派
 
考証学派は文献に基づいて漢方を客観的に研究しようとする人々を言います。

 江戸中期から隆盛を極めた古方では、自分たちに都合のよいように傷寒論や古典とを解釈する傾向にありましたが、これに対する反動として起こってきました。この点は折衷派に近いと言えます。折衷派が技術に中心をおいて、考証学派は文献に中心をおいたともいえます。たくさんの文献が必要だったので幕府の医学館にかかわる人たちです。
 
 改めて、日本の漢方の流れをおおまかにみると、①後世②古方③折衷派、考証学派、となります。それぞれが、前の時代の漢方への反動により起こってきました。
 
さて、代表的な人々は...
江戸後期から始まります。
・目黒道琢(1739‐1798):考証学派を興した人。1765年医学館が創建されたときから医経を休まずに講義した。『餐英館療治雑話』『驪家医言』
 
・伊沢蘭軒(1777-1829):医者であり儒学者。福山藩につかえた。医学は目黒道琢から学ぶ。弟子に森立之、渋江抽斎、山田業広らがいる。『蘭軒遺稿』『蘭軒医話』
 
・多紀元簡〈もとやす>(1755-1810):医学館を主宰し、徳川家斉の侍医となる。医書の収集、校訂、復刻につとめ考証派の学風を確立した。『傷寒論輯義』『金匱要略輯義』『観聚方要補』『素問識』『霊識』『脈学輯要』『医
 
・多紀元堅もとかた>(1795-1857):元簡の子ども。父の考証学の学風を継いで医籍の収集、校訂、復刻に努め、渋江抽斎、森立之、山田業広らの考証医学者を育てる。『傷寒論述義』『金匱要略述義』『難病広要』『薬治通義』『時還読我書』。医学館を挙げて半井家秘蔵の『医心方』の校刊を行った。
 
・渋江抽斎(1805-1858):伊沢蘭軒に師事した。弘前藩医をへて、幕府医学館の講師となった。森立之らと「経籍訪古志」をあらわした。
 
・森立之(1807-1885):伊沢蘭軒に師事した。後に医学館講師となる。幕末に最高水準に達した考証医学を集大成した最後の考証学者。渋江抽斎らとまじわり『経籍訪古志』の刊行をした。また『神農本草経』の復原をおこなった。
『本草経攷注』『素問攷注』『傷寒論攷注』
 
・山田業広(1808-1881):伊沢蘭軒つづいて多紀元堅に医学を学ぶ。その後幕府医学館講師を務める。維新後は温知社を立ち上げ漢方の存続運動を行った。『九折堂読書記』『金匱要略集注』『素問次注集疏』『医学管錐』『経方弁』 
 
 













多紀








 
 
 
【サントのコメント】
・伊沢蘭軒、渋江抽斎については森鴎外の小説があります。
 
・多紀氏は丹波康頼の子孫だそうです。多紀氏の私営になる躋寿館(せいじゆかん)が医学館になったそうです。江戸時代の医学の中心勢力となりました。
 
・江戸考証学派はレベルが高く当時の中国のそれを超えていたので明治になって中国に逆輸入されたそうです。東洋学術出版の『現代語訳黄帝内経素問、霊枢』を読んでいると元は中国の本なのに多紀元簡がたくさん引用されていることが不思議でしたが、これで理解できました。
 
 


【2014/01/01 22:35】 | 漢方専門医試験情報★New★
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